鉄の記憶>中央線 ― 2025/05/12 22:57
なにはともあれ、いちどは見ておかなくてはというので、遅まきながら万博に行ってきた。万博で気づいたことは、気が向いたらコメントに書く。いまは帰路の大阪メトロ中央線車内。なんとか座れたが、疲れた。歩数はかなり久しぶりの2万4千歩。
中央線といえば、1961年に弁天町と大阪港のあいだを高架で開通したとき、地下鉄では珍しい両運転台の6000型が単行(1両編成)で走り始めた。まだ中学生ではあったが、自宅からそれほど離れていないこともあって、一人で乗りに行ったのである。
こんな線を作ってどうなるのかと思っていたが、それがいまや近鉄けいはんな線を含めて、奈良県から万博会場まで49.9キロの堂々たる路線になった。もともとの計画のときに2か所も海の下を越えるとは誰も考えなかっただろう(コスモスクエア延長のときには夢洲延長の用意ができていたという話はあると聞いた)。
中央線に限らず、大阪の地下鉄は、〇号線と称していた時代から大きく様変わりして、昭和世代にとっては文字どおり隔世の感である。
中央線といえば、1961年に弁天町と大阪港のあいだを高架で開通したとき、地下鉄では珍しい両運転台の6000型が単行(1両編成)で走り始めた。まだ中学生ではあったが、自宅からそれほど離れていないこともあって、一人で乗りに行ったのである。
こんな線を作ってどうなるのかと思っていたが、それがいまや近鉄けいはんな線を含めて、奈良県から万博会場まで49.9キロの堂々たる路線になった。もともとの計画のときに2か所も海の下を越えるとは誰も考えなかっただろう(コスモスクエア延長のときには夢洲延長の用意ができていたという話はあると聞いた)。
中央線に限らず、大阪の地下鉄は、〇号線と称していた時代から大きく様変わりして、昭和世代にとっては文字どおり隔世の感である。