紀勢線のこと(1)2012/10/24 23:18

2011年の9月3日から4日にかけての颱風12号「タラス」で紀勢本線は甚大な被害を受けた。ようやく10月11日に新宮-熊野市間が復旧して、JR東海区間が全通したが、那智川の橋梁が流されて不通の紀伊勝浦-新宮間の復旧は年末になってしまった。

いかに列車密度が減って、特急より普通列車のほうが少ない紀勢線とはいえ、やはり鉄路は地域の血管、神経である。列車が走っているかどうかは、地域にとってきわめて大きな問題だ。

私がものごころついたころ、紀伊半島の鉄道は大阪に住む私にとっては紀勢「西線」だった。

天王寺駅の、いまはほとんど紀勢線の列車には使われなくなった阪和線ホームの北側から、紀勢西線の終点の新鹿(あたしか)行きの普通列車がEF52に牽かれて出ていくのを何度撮影に行ったか。

伊勢から伸びた紀勢東線と西線が急峻なリアスの区間を貫いて全通して本線になったのが1959年。私が10歳のころ。2009年には全通半世紀のイベントがあって、JR東海の特急「ワイドビュー南紀」が白浜まで出張ってきてお祝いした。そのわずか2年後に、またまた東西に分断されてしまったのは辛い。

小学校に上がってすぐ、もともと旅行や鉄道が好きだった亡父につれられて西線を新宮まで乗った。ほぼ一日がかりで新宮に着いて、市内の小さな旅館に泊まった翌日、熊野川河口から瀞峡観光のプロペラ船。ほぼ一日かけての往復、子どもにとっては退屈な旅行だった記憶がある。

当時は旧阪和電気鉄道区間の天王寺-東和歌山(現和歌山)間は電化していたのでEF52、もっともこの電機は昭和初期に作られた、国産初期の電機である。いまとなれば趣のあるいい車だと思うが、すでに東海道線の特急にEF58が活躍していて、南大阪の子どもは地域の格差をやんわりと感じたものだった。ちなみに阪和線では旧阪和電気鉄道の車両がそのまま国鉄形式になって走っていた。20系と総称されたが、出自はいろいろで、戦前の韋駄天阪和急行の栄光のかげはなくなっていた。

東和歌山からは非電化単線。海南を出たところからすぐに隧道が続き、蒸機の排煙に伴うシンダに悩まされた。窓にはシンダ除けの網戸があったが、そんなものではよけきれない。ときに目に入って結膜を真っ赤にした。近年、蒸機の復活運転を観光資源にしているが、客車のほうはエアコン効かせた密閉だから嬉しがっていられる。クーラー設備などない真夏の蒸機列車の旅は、ある意味修行だったのである。

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