阪神淡路大震災を15年間どう書いてきたか ― 2012/01/17 22:09
17年目の1.17だ。
私は震災より前からほぼ毎日ネットで日記を書いてきた。パソコン通信の初期のころのものは行方不明だ。探せばどこかにアーカイブされているはずだが見つけられないでいる。1997年、つまり震災の2年後のものから、パソコン通信のものをホームページに移動できていて、いまも読むことができる。15年前だから、私がまだ40歳代だったころのもの。
1.17と4.25が忘れられない日だったが、今年はさらに3.11が加わった。
私は1.17をこの15年間どういう思いで迎えていたのか。
ある時期、じつは震災に触れたくない気持ちになった。両親が亡くなったり、脳外科医をやめたりという人生の転換があったころだ。いま思い返せば、私には似つかわしくないが、若干の鬱傾向になっていたかもしれない。五十路はちと危ない。経験上、そう思う。いまはだいじょうぶ、ノーテンキだ(笑)。
>>>>>>>>>>>>
1997年1月17日/震災を忘れない日
昨夜は新年会があって今朝早くは起きることができなかったという不謹慎はありましたが、今日は言うまでもなく阪神淡路大震災の日です。慰霊祭があったりテレビが震災一色だったりしまして、それはそれでなんとなく釈然としないこともままありましたが、もうあまり多くを書かず静かに喪に服していたいと思います。
合掌。
1999年1月17日(日)
阪神淡路大震災から4年目である。早出勤務で起きるのが早い傾向にあるからでもあるのだが、今朝も5時半すぎに目を覚ました。寝床で暗い窓のほうを見ながら、それでも私のところはまったく揺れとしては弱かったが一瞬の恐怖が走った4年前を思い出していた。
今日は明るくなるとセンター試験二日目に向かう受験生が前の道を急ぐ。平和といえば平和だ。
2000年~2004年は触れずまたは日記なし
2005/1/17
「阪神淡路大震災」
今日は、とくにこの兵庫県南部では、震災から10年という一色になっています。いまさら自分のホームページでそれに触れなくても、とも思いますが、しかしやはり無視することはできません。
10年前の朝、大きな揺れで目覚めた私は、箕面にあった自宅にたいした被害がないのを確認してから、すこし空が明るくなってきたころ、車を病院に走らせました。川西市は、それでもまだ被害は少なかったほうですが、しかし病院に着くと停電のなか怪我をしたおおぜいの人たちが詰めかけていました。それから長い一日を過ごすことになったのでした。
10年とはいかに早いものでしょうか。そして、私たちのように、揺れは経験したものの、自分の身近に人的物的被害がそれほど深刻でなかった者がその経験を風化させてしまうのが早いのでしょうか。
「まさか自分の身に」という根拠のない思いこみだけはしないでおきたいと、1月17日のたびに思ってはいるのですが…。
震災記念日 2006/1/17(火) 午後 7:07
恬が朝早くから騒いでいるので起きて着替え、お散歩に出ることにしました。リビングにきてみたら、もう午前5時46分は過ぎていましたが、まだ外は暗く、テレビをつけますと震災の記念行事が映っていて、かなり鮮明に11年前の朝を思い出しました。
11年という月日はやはり私のような者の状況もかなり変えてしまっています。住まいも変わりましたし、あの日はまだ救急病院の脳外科を預かっていて、まさか自分で診療所をするなんて夢にも思っていませんでした。両親も健在だったし、わが家の犬家族も先代の「もも」(マルチーズ牡)でした。
あの日、わが家には幸いほとんど被害はありませんでした。病院に出ていこうと思いましたが、暗い間は危険ではないかという勘のようなものが働きまして、なんとなくおびえる「もも」を抱きながら空が明るくなるのを家族がリビングに集まって見ていました。照らさなくても見えるくらい闇が明けて、車で当時住んでいた箕面から西に向かいますと、次第に被害の大きさを実感することになり、そして震災の中での仕事が始まったのでした。
恬のお散歩をしながら、11年前と違って平和に明ける空を見ていて、もうあんなことはごめんだなあとしみじみした朝でした。
あのころ乗っていた車がシトロエンBXブレーク、そして昨年末に半年待ってわが家にきた車がシトロエンC4。ひさしぶりのシトロエンがガレージにあるのもちょっと妙な気分です。
記録としての1月17日 ― 2007/01/17 22:21
阪神淡路大震災の記念日、関西のメディアはいっせいに大きく報道していました(他の地域ではどうだったのでしょうか)。ネット関係でも、震災を体験したかたがたのいろいろな書き込みが見られています。
私自身もあるていどの影響を受けた一人ではありますが、しかし家族に被害があったわけでも、自宅に損害があったわけでもなく、被災地で住んで仕事をしていた者としては、きわめて幸運だったと思っています。しかし、知人や患者さんに亡くなったかたやケガをされたかたがおられ、震災の数十分後から勤務先の病院での診療を始めた経験があって、やはり「特別な日」だといえましょう。
震災の後に2回の引っ越しをし、いまの自宅では家具を極力なくして、非常時用のザックを置き、年に一度交換点検する非常用の医療器材を診療所とはべつに自宅にも常備するなど、あるていどの備えはしているものの、以前のような緊張感はなくなっているのが正直なところではあります。
ベランダから見渡せる阪神間の平野がまたブルーシートで覆われるようなことがないように祈りつつ、12年目の記念日を静かに見送れることを感謝。
記録としての1月17日(13年目) ― 2008/01/17 22:54
記憶がかなり薄れていますが、あの朝も今朝のようにかなり寒かったのではなかったか。
先代のわが家のイヌ「ももたろう」がまだ元気でいました。ここのところの日の出が7時すぎなので、あの日も明るくなったのは地震から1時間ほどたったあとだったはず。その前に車を病院に向けて走らせて、のちに破損がみつかって何ヶ月も通行できなくなった国道171号線の石橋跨線橋の上で、西のほうに幾筋もの煙が上がっているのが見えて戦慄したのを鮮明に覚えています。
今日の午後、珍しくも人身事故で阪急電車のダイヤが乱れていてちょっとイラつきかけたのですが、いやいや13年前は「いつになったら電車が走るのか」などということすらも考えられなかったのだと思い出して、人間は贅沢なもんだと反省したことでした。
しかし、震災を知らない子どもたちがもう中学生ですか。
阪神淡路大震災の日 ― 2009/01/17 22:53
14年目だそうだ。
私はいまだに当時の映像を冷静に見ることができないでいる。親しい人が亡くなったり、家族が亡くなって生活が一変したりしたかたがたが周囲に大勢おられるのである。
だから、いま私が紀南でのんびりとしているのが、いわば「ちょっとしたタイミングの違い」だと思いつつ過ごしている幸運に感謝したい。1995年1月17日の午前6時半ごろに、箕面に住んでいた私が川西に車を走らせていた道路の高架がが、じつは危険な状態だったとあとで知ったとしても、それは針のような幸運であったと思い知った一日であった。
いま、南海・東南海地震が間近といわれている最前線である紀南にいて、それでもなお「 来るなら来い」と思えるのは14年前の経験があるからかもしれない。こちらでは、私が医療者であるということは非公式なことではあるが、いざというときには自分の立場を生かそうという準備はすこしづつではあるがしているつもり。
そんなことはないほうがいいのではあるが。
…合掌。
15年目の1月17日 ― 2010/01/17 21:30
べつに目覚ましを設定していたわけではない。「その」時刻に起きていようと、あえて思わなかった。でも、なぜか5時半すぎに目覚めた。白浜の寝室では、壁に時刻を投射する時計があって、目覚めたら5時30分すぎだった。それは尿意のためかもしれない。でも違ったかもしれない。トイレに行って、寝室に戻ったが、「その」時刻が迫っていた。たまたま今朝はそれほど寒くはなかったので、ベッドの端に座ってその時刻に合掌した。
私自身はそれほど被害は大きくなかった箕面市で1995年1月17日を迎えた。しかし、職場は兵庫県であった。阪神間ほどではなかったが、震災の影響は大きかった。
今日と4月25日は忘れないでおこうとずっと思っている。今年はたまたまどちらも日曜日だ。
もう15年もたったのだと思う。パートナーを放置して娘の部屋に行った、その娘はもう嫁いでしまった。放置したと非難したパートナーはまず犬を抱いた。その犬(もも)は1999年に亡くなっている。時間が過ぎるのは早い。
5時46分を迎えたあと、私は二度寝した。近い将来必ずくるといわれている南海・東南海地震の最前線である紀南で暮らしているのにそのありさまである。時間の経過は、人の警戒心をゆるめてしまうようだ。
阪神淡路大震災の日 ― 2011/01/17 12:47
午前5時半ごろに自然に目が覚めた。
あの朝も今朝と同じように犬が布団のなかにいた。もちろん1999年に亡くなった先代、マルチーズの桃太郎だったが…。
家族や親しい人は幸い大きな被害を受けなかったが、知り合いの何人かが亡くなり、多くが人的物的に被災された。すでにやっていた訪問診療のために、高い通信料を払っていた携帯電話がたいへん役だったことを鮮明に覚えている。
最近、なんだかあの時代くらいからこの国が変わっていったのではないかと思えてしまう。あるいは、隠されていた矛盾が明らかになって国や政治が信用できなくなったのかもしれない。あのときいろいろ批判されたメディアのありかたも忘れられたようだ。
関西の人たちは震災や福知山線事故の記憶が強く残っているが、ほかの地域のかたには数ある災害のひとつのようになっているのではないだろうか。首都圏ではこちらよりサリン事件のほうが印象が強いようにみえる。
いまや当地でも震災の記憶を呼ぶ場はほとんどなくなっている。当時はバリバリの中年だった私たちも還暦を超えてしまった。
しかし、私の自宅マンションも白浜の家も診療所も、置く家具はほとんどなく、また水や簡単な食料はつねに用意しているなどの備えはいまだに実行している。大地震に遭ったら危ないなあと心配な訪問診療先だけはどうしようもないのだが。
この国では、震災当時にも増して、自分は自分で守らなければ国はなにもしてくれなくなっているのだ。16年目の震災の日に改めて心したい。
<<<<<<<<
昨年の1.17日記の最後にはからずも書いている。
「自分は自分で守らなければ国はなにもしてくれなくなって」
これは、3.11とその後の経緯を見ればもっと実感するのである。
合掌。
私は震災より前からほぼ毎日ネットで日記を書いてきた。パソコン通信の初期のころのものは行方不明だ。探せばどこかにアーカイブされているはずだが見つけられないでいる。1997年、つまり震災の2年後のものから、パソコン通信のものをホームページに移動できていて、いまも読むことができる。15年前だから、私がまだ40歳代だったころのもの。
1.17と4.25が忘れられない日だったが、今年はさらに3.11が加わった。
私は1.17をこの15年間どういう思いで迎えていたのか。
ある時期、じつは震災に触れたくない気持ちになった。両親が亡くなったり、脳外科医をやめたりという人生の転換があったころだ。いま思い返せば、私には似つかわしくないが、若干の鬱傾向になっていたかもしれない。五十路はちと危ない。経験上、そう思う。いまはだいじょうぶ、ノーテンキだ(笑)。
>>>>>>>>>>>>
1997年1月17日/震災を忘れない日
昨夜は新年会があって今朝早くは起きることができなかったという不謹慎はありましたが、今日は言うまでもなく阪神淡路大震災の日です。慰霊祭があったりテレビが震災一色だったりしまして、それはそれでなんとなく釈然としないこともままありましたが、もうあまり多くを書かず静かに喪に服していたいと思います。
合掌。
1999年1月17日(日)
阪神淡路大震災から4年目である。早出勤務で起きるのが早い傾向にあるからでもあるのだが、今朝も5時半すぎに目を覚ました。寝床で暗い窓のほうを見ながら、それでも私のところはまったく揺れとしては弱かったが一瞬の恐怖が走った4年前を思い出していた。
今日は明るくなるとセンター試験二日目に向かう受験生が前の道を急ぐ。平和といえば平和だ。
2000年~2004年は触れずまたは日記なし
2005/1/17
「阪神淡路大震災」
今日は、とくにこの兵庫県南部では、震災から10年という一色になっています。いまさら自分のホームページでそれに触れなくても、とも思いますが、しかしやはり無視することはできません。
10年前の朝、大きな揺れで目覚めた私は、箕面にあった自宅にたいした被害がないのを確認してから、すこし空が明るくなってきたころ、車を病院に走らせました。川西市は、それでもまだ被害は少なかったほうですが、しかし病院に着くと停電のなか怪我をしたおおぜいの人たちが詰めかけていました。それから長い一日を過ごすことになったのでした。
10年とはいかに早いものでしょうか。そして、私たちのように、揺れは経験したものの、自分の身近に人的物的被害がそれほど深刻でなかった者がその経験を風化させてしまうのが早いのでしょうか。
「まさか自分の身に」という根拠のない思いこみだけはしないでおきたいと、1月17日のたびに思ってはいるのですが…。
震災記念日 2006/1/17(火) 午後 7:07
恬が朝早くから騒いでいるので起きて着替え、お散歩に出ることにしました。リビングにきてみたら、もう午前5時46分は過ぎていましたが、まだ外は暗く、テレビをつけますと震災の記念行事が映っていて、かなり鮮明に11年前の朝を思い出しました。
11年という月日はやはり私のような者の状況もかなり変えてしまっています。住まいも変わりましたし、あの日はまだ救急病院の脳外科を預かっていて、まさか自分で診療所をするなんて夢にも思っていませんでした。両親も健在だったし、わが家の犬家族も先代の「もも」(マルチーズ牡)でした。
あの日、わが家には幸いほとんど被害はありませんでした。病院に出ていこうと思いましたが、暗い間は危険ではないかという勘のようなものが働きまして、なんとなくおびえる「もも」を抱きながら空が明るくなるのを家族がリビングに集まって見ていました。照らさなくても見えるくらい闇が明けて、車で当時住んでいた箕面から西に向かいますと、次第に被害の大きさを実感することになり、そして震災の中での仕事が始まったのでした。
恬のお散歩をしながら、11年前と違って平和に明ける空を見ていて、もうあんなことはごめんだなあとしみじみした朝でした。
あのころ乗っていた車がシトロエンBXブレーク、そして昨年末に半年待ってわが家にきた車がシトロエンC4。ひさしぶりのシトロエンがガレージにあるのもちょっと妙な気分です。
記録としての1月17日 ― 2007/01/17 22:21
阪神淡路大震災の記念日、関西のメディアはいっせいに大きく報道していました(他の地域ではどうだったのでしょうか)。ネット関係でも、震災を体験したかたがたのいろいろな書き込みが見られています。
私自身もあるていどの影響を受けた一人ではありますが、しかし家族に被害があったわけでも、自宅に損害があったわけでもなく、被災地で住んで仕事をしていた者としては、きわめて幸運だったと思っています。しかし、知人や患者さんに亡くなったかたやケガをされたかたがおられ、震災の数十分後から勤務先の病院での診療を始めた経験があって、やはり「特別な日」だといえましょう。
震災の後に2回の引っ越しをし、いまの自宅では家具を極力なくして、非常時用のザックを置き、年に一度交換点検する非常用の医療器材を診療所とはべつに自宅にも常備するなど、あるていどの備えはしているものの、以前のような緊張感はなくなっているのが正直なところではあります。
ベランダから見渡せる阪神間の平野がまたブルーシートで覆われるようなことがないように祈りつつ、12年目の記念日を静かに見送れることを感謝。
記録としての1月17日(13年目) ― 2008/01/17 22:54
記憶がかなり薄れていますが、あの朝も今朝のようにかなり寒かったのではなかったか。
先代のわが家のイヌ「ももたろう」がまだ元気でいました。ここのところの日の出が7時すぎなので、あの日も明るくなったのは地震から1時間ほどたったあとだったはず。その前に車を病院に向けて走らせて、のちに破損がみつかって何ヶ月も通行できなくなった国道171号線の石橋跨線橋の上で、西のほうに幾筋もの煙が上がっているのが見えて戦慄したのを鮮明に覚えています。
今日の午後、珍しくも人身事故で阪急電車のダイヤが乱れていてちょっとイラつきかけたのですが、いやいや13年前は「いつになったら電車が走るのか」などということすらも考えられなかったのだと思い出して、人間は贅沢なもんだと反省したことでした。
しかし、震災を知らない子どもたちがもう中学生ですか。
阪神淡路大震災の日 ― 2009/01/17 22:53
14年目だそうだ。
私はいまだに当時の映像を冷静に見ることができないでいる。親しい人が亡くなったり、家族が亡くなって生活が一変したりしたかたがたが周囲に大勢おられるのである。
だから、いま私が紀南でのんびりとしているのが、いわば「ちょっとしたタイミングの違い」だと思いつつ過ごしている幸運に感謝したい。1995年1月17日の午前6時半ごろに、箕面に住んでいた私が川西に車を走らせていた道路の高架がが、じつは危険な状態だったとあとで知ったとしても、それは針のような幸運であったと思い知った一日であった。
いま、南海・東南海地震が間近といわれている最前線である紀南にいて、それでもなお「 来るなら来い」と思えるのは14年前の経験があるからかもしれない。こちらでは、私が医療者であるということは非公式なことではあるが、いざというときには自分の立場を生かそうという準備はすこしづつではあるがしているつもり。
そんなことはないほうがいいのではあるが。
…合掌。
15年目の1月17日 ― 2010/01/17 21:30
べつに目覚ましを設定していたわけではない。「その」時刻に起きていようと、あえて思わなかった。でも、なぜか5時半すぎに目覚めた。白浜の寝室では、壁に時刻を投射する時計があって、目覚めたら5時30分すぎだった。それは尿意のためかもしれない。でも違ったかもしれない。トイレに行って、寝室に戻ったが、「その」時刻が迫っていた。たまたま今朝はそれほど寒くはなかったので、ベッドの端に座ってその時刻に合掌した。
私自身はそれほど被害は大きくなかった箕面市で1995年1月17日を迎えた。しかし、職場は兵庫県であった。阪神間ほどではなかったが、震災の影響は大きかった。
今日と4月25日は忘れないでおこうとずっと思っている。今年はたまたまどちらも日曜日だ。
もう15年もたったのだと思う。パートナーを放置して娘の部屋に行った、その娘はもう嫁いでしまった。放置したと非難したパートナーはまず犬を抱いた。その犬(もも)は1999年に亡くなっている。時間が過ぎるのは早い。
5時46分を迎えたあと、私は二度寝した。近い将来必ずくるといわれている南海・東南海地震の最前線である紀南で暮らしているのにそのありさまである。時間の経過は、人の警戒心をゆるめてしまうようだ。
阪神淡路大震災の日 ― 2011/01/17 12:47
午前5時半ごろに自然に目が覚めた。
あの朝も今朝と同じように犬が布団のなかにいた。もちろん1999年に亡くなった先代、マルチーズの桃太郎だったが…。
家族や親しい人は幸い大きな被害を受けなかったが、知り合いの何人かが亡くなり、多くが人的物的に被災された。すでにやっていた訪問診療のために、高い通信料を払っていた携帯電話がたいへん役だったことを鮮明に覚えている。
最近、なんだかあの時代くらいからこの国が変わっていったのではないかと思えてしまう。あるいは、隠されていた矛盾が明らかになって国や政治が信用できなくなったのかもしれない。あのときいろいろ批判されたメディアのありかたも忘れられたようだ。
関西の人たちは震災や福知山線事故の記憶が強く残っているが、ほかの地域のかたには数ある災害のひとつのようになっているのではないだろうか。首都圏ではこちらよりサリン事件のほうが印象が強いようにみえる。
いまや当地でも震災の記憶を呼ぶ場はほとんどなくなっている。当時はバリバリの中年だった私たちも還暦を超えてしまった。
しかし、私の自宅マンションも白浜の家も診療所も、置く家具はほとんどなく、また水や簡単な食料はつねに用意しているなどの備えはいまだに実行している。大地震に遭ったら危ないなあと心配な訪問診療先だけはどうしようもないのだが。
この国では、震災当時にも増して、自分は自分で守らなければ国はなにもしてくれなくなっているのだ。16年目の震災の日に改めて心したい。
<<<<<<<<
昨年の1.17日記の最後にはからずも書いている。
「自分は自分で守らなければ国はなにもしてくれなくなって」
これは、3.11とその後の経緯を見ればもっと実感するのである。
合掌。
