放射能で思い出す半世紀前のこと2011/04/05 23:31

1949年生まれである。

ビキニ環礁での米国の水爆実験によるマグロ漁船「第五福竜丸」の被爆は1954年なので、直接ニュースに接していろいろ考えた年齢ではなかったはずだが、その後ずっと「被爆マグロ」は話題になっていたので、マグロは放射能に汚染されているという刷り込みが子どものころにあったのは確かだ。そのころ、日本人はほとんどミナミマグロは食べなかったはず。

この時期以来、米国やソ連や英国やフランスや、そのうち中国、インド、パキスタン、北朝鮮なども核実験を強行している。

初期には大気圏内の爆発実験、つまり、人口の少ない地域でいきなり空中で核爆弾を破裂させていたのだ。当然のことながら、大気に放射能がまき散らされた。 それを考えると、海に汚染水を少し放流したからといって激しく反発する、大気圏内核実験経験国は「よぅゆーわ」だ。

雨に当たると頭髪が抜けるとか、空気中の放射能で白血病になるとか、放射能は家の窓を閉め切っても侵入するのだとか、私が小学生のころには、いまとは比較にならないほどのオドロオドロしい間違った知識やデマが飛び交っていたものだ。

食品の基準がどうとか、空気中に何シーベルトとか、そんなものはなんにもなかった。小学生は、毛が抜けたらいややなあという恐怖だった。思い返せば、核についても牧歌的だった時代かもしれぬ。

そして、停電のこと。

その当時、私は八尾市で暮らしていたのだが、その家の茶の間(!)の天井には、ガス灯がぶら下がっていた。当時は簡単にしばしば停電するので、ガスに点灯して明かりにしていたのだ。青白い弱々しい炎であった。丸いガラスで囲われてバーナーが1個という形だったと記憶する。ネットで検索してみたが、さすがに画像は出てこない。40センチほどのパイプの先にバーナーがあって、それを球形のガラスが覆っているもの。半世紀も前なのに鮮明に覚えている。

「あ、消えた」

というだけのリアクション。ガス灯に点火してぼんやりとした茶の間で宿題をする。

その時代に戻れるかと言われれば、私は平時には無理だが、でもいざとなればなんとかなりそうな気がする。

伊勢湾台風や第二室戸台風のときは、ほとんどまともな情報なく、いきなり風が吹いて高潮がきた。たまたま巨大地震や津波災害が、戦後の日本になかっただけだったのだ。その油断が、このたびの原発事故に対する油断になったのかもしれぬ。